アイルトン・セナ 追憶の英雄 発売記念
小倉茂徳 スペシャルコラム
「没後20年、セナを想う・・・」
(全16回)
小倉茂徳
出身地:東京都 1962年生
87年、88年にホンダF1チーム広報としてセナと共にサーキットを転戦。その後、フリーのモータースポーツジャーナリストとして活躍。フジテレビのF1中継で解説を務めたり、モータースポーツを題材とした教育イベントに取り組んだりと幅広く精力的に活動を続けている。
2014.10.24 column.01
1987年4月、ホンダF1チームの広報の初仕事として、開幕戦の地ブラジルに向かった。レースはリオデジャネイロで開催だったが、現地法人との広報とPR活動の事前打ち合わせのために、最初に降り立ったのはサンパウロだった。
空港からホテル、ホテルからホンダ・ド・ブラジルまで自動車で移動すると、現地のドライバーたちはまるでレースを楽しむかのようにスキあらば抜け目なく割り込んでくる。「ここがアイルトン・セナの故郷か」と、思った。アイルトン・セナはF1にあがる頃に先輩のネルソン・ピケに「サンパウロのタクシードライバー」と言われて、怒ったことがあったという。確かに、育ちの良いアイルトンにとってこの表現は侮辱的だった。でも、あの果敢で速く、抜け目ない走りはこの地の人の独特のものなんだなということを感じていた。そして、週末に会って、ともに働くのがより楽しみになった。
アイルトン・セナ・ダ・シルバ。この名前を知るようになったのはオートスポーツ誌のレーシングカートのページだった。南米チャンピオンとして1978年のジャパンカートレースにやってきた頃だったと思う。でも、その時は日本人最上位だった菅家安智さんに次ぐ4位で、「菅家さんすごいな!」と思っていた。
その後しばらくすると、またその名前を誌上でみることになった。1983年の英国F3の記事で、「またしてもダ・シルバ」という言葉で、彼の速さと強さを伝えていた。同時に、マーティン・ブンランドルとの白熱した戦いぶりのレポートを楽しく読ませてもらった。アイルトンはこの年の英国F3を制し、F3マシンでの初レースとなったマカオGPでも優勝した。昨年、マカオGPは第60回を迎え、アイルトンが優勝したときと同じセオドールレーシングが復活。そのマシンを駆るアレックス・リンが優勝した。歴史的な勝利を現地で観た瞬間頭の中をよぎったのはアイルトンだった。
エマーソン・フィッティパルディ、ネルソン・ピケと同様に英国F3を制したセナ・ダ・シルバは、この1983年にウィリアムズ、ロータス、マクラーレン、ブラバム、トールマンからF1のテスト走行にも誘われた。そして、良い走りをしていたこともニュースで読んだ。僕の中でセナ・ダ・シルバというドライバーがより気になる存在になっていた。
2014.10.31 column.02
1984年、アイルトン・セナ・ダ・シルバは、多くのF1チームの注目の的になったが、トップチームには空席がないか、乗れても条件が悪いという状況だった。そして、唯一良い条件で乗れたのはトールマンチームだった。このチームには、チーフデザイナーにはロリー・バーン、エンジニアにはパット・シモンズ、メカニックには津川哲夫など優秀な人材が多く、後にベネトン、ルノーとしてチャンピオンになるのだった。が、まだセナが加入した当時は若く、様々な可能性を試しているようなところだった。
バーンの設計はかなり先鋭的で、当時は理解も評価もされず、その奇抜な空力デザインは映画「スターウォーズ」に出てくる乗り物のようだと揶揄されたこともあった。エンジンは、ブライアン・ハートによるハート415T直列4気筒ターボ。自動車メーカーが巨額の資金と人員を投入して開発してくるターボエンジンに、町工場くらいの小規模なエンジンスペシャリストが挑むようなものだった。タイヤはピレリで、ミシュランのほうが一日の長があった。だが、あらたなことをやろうとするチャンレンジャーという感じのチームに見えた。そこに、若いチャンレンジャーのセナ・ダ・シルバが入った。とても面白そうな組み合わせだなと思った。
シーズンが始まると、タイヤの性能差とエンジンの信頼性不足に苦しんだ。この1984年にセナ・ダ・シルバは15戦に出走し、8戦でリタイヤ、予選落ち1回を喫した。反面、カナダでの7位以外、完走すれば上位6位以内で入賞という非凡なところを見せた。
雨のモナコGPの2位とファステストラップは見事だった。このときのレポートを読んだり後年レース映像を見たりしてもセナ・ダ・シルバとステファン・ベロフによる追い上げと、ナイジェル・マンセルの果敢な走りにはドキドキして、魅了された。
余談ながら、あのレースはメインポストでレース中断を意味する赤旗が降られたのだが、その脇でもう一人の男が同時にレース終了を意味するチェッカー旗を出した。これは明らかな規定違反だったのだが、レース終了の事実は覆らなかった。FISA(国際モータースポーツ連盟=現FIA)のジャンマリー・バレストル会長とACM(モナコ自動車クラブ)の役員であるミシェル・ボエリ氏が、トップのアラン・プロストを勝たせるために強引にチェッカーを出させたといわれる。ただ現実は、規定違反の旗の運用でジャッキー・イクス競技長だけが詰め腹を切らされるように処分されただけ。不可解なレース結果であり、不可解な処分だった。このとき、あらためて旗の意味と運用について、レギュレーションをしっかり読み、知る契機となった。これは後年自分の仕事で役に立つことになった。そして、今振り返ると、後年のアイルトン・セナ対バレストルの始まりのようにも思える。
モナコでの2位、イギリスとポルトガルでの3位など、マシンでは劣る状況でも、セナ・ダ・シルバは果敢な走りで結果を出した。あらたな時代のドライバーがやってきたと感じて、さらに気になる存在となった。反面、ヨーロッパの記者が発信する記事は、この新大陸からやってきた新時代のドライバーに対して、否定的な声と記事が多かった。それは、まさに「出る杭は打たれる」というものように思えたし、釈然としなかった。
2014.11.07 column.03
1984年にF1デビューしたアイルトン・セナ・ダ・シルバは、トールマン・ハートとピレリタイヤという組み合わせで、速さをみせた。その活躍から知名度も増し、名前もセナ・ダ・シルバからセナとして知られるようになった。これが速さも信頼性もより備わったトップチームのマシンと、当時のF1で強さを誇ったミシュランのタイヤだったらどうなっただろう?そんな期待を抱かせた。
そのチャンスは1984年のうちにやってきた。トールマンで出走する一方、セナは1985年からチーム・ロータスで走る交渉をしていた。そして、イタリアGPでこの交渉が成立したことが公式に発表された。当時のイタリアGPはシーズン終盤で、ドライバーやチームスタッフの移籍発表が多い週末となるのが常だった。チーム・ロータスとセナもこれにならって発表した。
だがトールマンのチームマネージャー、アレックス・ホークリッジはこれに怒った。そもそもセナとの契約期間が残っていたなかでの一方的な移籍発表であったことと、しかもそれをチームのメインスポンサーの地元レースで行われたことで、チームマネージャーの面目を完全に潰されたからだ。ホークリッジはその報復としてセナをイタリアに出走させなかった。後年ホークリッジは、「あのアイルトン・セナをマシンから降ろしたF1史上唯一のチームマネージャー」と自嘲的なジョークを言った。その後、トールマンチームとセナはシーズン終わりまで出走することで合意した。
チーム・ロータスはF3時代からセナに目をつけていた。ピーター・ウォー代表は生前当時のことをこう話してくれた。
ナイジェル・マンセルに代わるドライバーとして有望だったセナを84年から起用したかった。しかし、メインスポンサーのJPSタバコが英国人ドライバーを求めたことで、マンセルの84年残留が決定。ところが、85年以降についてはJPSによるマンセル起用の条件がなくなったことで、ウォーはすぐさまセナにアプローチをかけた。当時のチーム・ロータスにはエリオ・デ・アンジェリスというエースがいたが、セナにとってもロータス加入はチャンスだった。
一方で、だが、ウォーとマンセルの関係は完全に冷え切っていた。ウォーから見ればマンセルはわがままで扱いづらいドライバーとなり、マンセルから見ればウォーはロータスの創業者コリン・チャップマンと自分との契約内容を反故にしたチーム後継者だった。マンセルは自分がチャップマンによって起用された最後のロータスドライバーだったのにもかかわらず、チャップマン急逝後にはチームから手のひらを返すように冷遇され、その果てにはウォーが連れてきた年下のセナのせいで押し出されたと感じた。こうした経験から、マンセルの中にセナに対することさら激しいライバル心が燃え上がることになった。
2014.11.14 column.04
85年にチーム・ロータスに移籍すると、セナの速さはさらに際立った。ロータスのタイプ97Tはとても優れたハンドリング性能を備え、セナのドライビングによく応えてくれるマシンだった。そして、担当エンジニアのスティーブ・ハラムとも良いコンビとなった。ハラムはこの後、セナがマクラーレンを離れるまでずっと一緒だった。
85年は16戦中ポールポジションを6回獲得。予選でのセナはとにかく速かった。当時はきわめてパワフルだが短命な予選専用エンジンの使用が許されていたので、セナはその利点を活かしきっていた。チーム・ロータスも予選用ルノーV6ターボエンジンに細工をしていた。過給圧が上がりすぎてエンジンが壊れてしまうのを防ぐために、設定した過給圧以上になりそうなときには排気ガスを抜かしてターボの効きを抑えるウェストゲートバルブという装置がついていたのだが、予選時にチーム・ロータスでは独自にこのウェストゲートバルブを外し、その取り付け穴を塞いでいた。そして、最大限の過給でエンジンを回していた。過給圧がものすごくあがったことで、吸気の熱をとる装置であるインタークーラーが中の吸気用の空気の圧力の高さで膨らんでしまい、破裂してしまうほどだった。そこで、チーム・ロータスはインタークーラーにも周囲に分厚いアルミ板を溶接して、膨らんだり破裂しないように補強していたほどだった。
そしてセナはポルトガルGPでは雨のなかで他を圧倒する走りでF1初優勝。このことはDVD本編にくわしく紹介されているので、そちらに任せようと思う。ひとつ付け加えると本当にひどい雨だったことがうかがえる資料を近年見たことがあった。それは、決勝日にハラムが記入していたデータシートだった。エンジニアはデータシートという専用の書式の紙を持ち、走行ごとにタイムやセットアップの変更などいろいろ書き込む。ポルトガルGP決勝日のハラムのデータシートはいろいろ記入されていたのはわかるのだが、雨でインクがほとんど流されてしまい肉眼ではまったく判読不能なほどだったのだ。
86年もセナの予選での速さは光った。16戦中8回のポールポジションを獲得した。チーム・ロータスとルノーはポールポジション獲得回数をどんどん伸ばしていった。とくにルノーはフランスの名門スポーツ紙「レキップ」の日曜日版に「○○GPポールポジション獲得!」と大きな広告を打った。これは、ルノーにとってとても良い広告戦略になった。なぜなら、レキップ紙の日曜日版は、1週間のなかでもっとも読まれるため、多くの人にルノーは高性能、速い、良いというプラスのイメージを伝えることができたからだ。
しかし、決勝になるとそうもいかなかった。85年の終盤からホンダのエンジンが性能で大幅な進化を遂げたうえ、ウィリアムズもホンダのアドバイスでFW10リヤサスペンションを改良した結果強くなってきていた。さらに86年になると、FW10の発展型であるFW11となり、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルがセナの強敵となった。そのうえ、マクラーレン・TAGポルシェにはアラン・プロストがいた。反面、ロータス98T・ルノーは決勝ではライバルにやや劣り始めていた。
だが、セナはトールマン時代から先輩たちにも容赦なく挑んだ。それが、「生意気な悪ガキ」というイメージも持たれることにもなった。しかし、積極果敢で既存の勢力に挑むセナの姿は、若さにみちた新鮮な活力と魅力をたたえていた。
2014.11.21 column.05
ロータス・ルノー時代のセナは、予選でとてつもない速さをみせた。反面、ハンドリング特性がとても良かったロータスのタイプ97Tだったが、98Tでは大きな進歩はなく、だんだんと周囲に対する優位性を失っていった。この時期にセナは、ロータスに見切りをつけはじめたようだと、インタビュー収録の際に桜井淑敏氏からうかがった。
それでもチーム・ロータス監督のピーター・ウォーはセナの優秀さをずっと高く評価していて、なんとかセナをつなぎとめようとした。そして、セナの憧れだったホンダエンジンを87年から獲得する動きに出た。これは86年夏のドイツGPで正式発表にこぎつけた。
この発表に際して、ウォーはセナに87年の契約延長に関する「覚書き」にサインすることを求めた。それは、ホンダエンジンを獲得すること、潤沢な資金をもたらすタバコスポンサーを維持すること、などすべてセナの希望にそった内容だった。セナもその覚書にサインして、ドイツGPでのホンダエンジン獲得発表に臨んだ。
しかし、年が開けると状況が変わったと、ウォーは生前話してくれた。正式契約の内容も前年に交わした覚書通りだった。ただ、タバコスポンサーがJPSからキャメルに代わっただけだった。ところが、セナは「キャメルとは聞いていない」として、契約金の増額を要求してきたという。結果、ウォーはセナの要求を呑んだ。当初の契約金は260万ポンド(約6億5000万円)だったのが、これで500万ポンド(12億5000万円)に跳ね上がったという。当時のF1のトップチームの年間活動予算が約30億円とされていたことを考えると、これは破格の賃上げだった。
「前年のJPSよりもキャメルのスポンサー額のほうが大きかったのに、アイルトンの賃上げでチームの活動予算が減ってしまった」と、ウォーは生前打ち明けてくれた。しかも、「アクティブサスペンションでなければ走らない」というセナの要求に応えて、開幕戦からロータスのタイプ99Tにはアクティブサスペンションが搭載された。これもまたチームの財政を圧迫したという。
「誰が入れ知恵したかしらないが、あのアイルトンの要求がなければチーム・ロータスはキャメルで復活できたはずなんだ」と、ウォーは言った。
だが、これもセナの一面だった。日本のでは清廉潔白な聖人君子のように扱われがちだったセナだが、契約交渉ではきわめてしたたかだった。そして、弁護士などの助言を受けて、契約内容や文言を詳細に詰めた。そして、その条文の穴を見つけるとそれをまた利用して待遇でも金銭面でもさらに自分の有利な展開に持ち込もうとした。契約金額は、それが自分への評価と価値の尺度とセナは考えていたのかもしれない。
シーズンが始まると、キャメル・ロータス・ホンダは、ウィリアムズ・ホンダの敵ではなかった。タイプ99Tはタイプ98Tのホンダエンジン搭載版のようなマシンで、当時最先端技術のアクティブサスペンションはつけていたが、それ以外の大きな進歩はなかった。
なんとかモナコとデトロイトで優勝したが、これはアクティブの良さもさることながら、セナの卓越した集中力と巧さが光っていた。とくにモナコGPは、セナ自身、ホンダ、ロータス・アクティブのすべてにとって初優勝という記念すべきものになった。84年に目前で逃した勝利をついに手中に収めたことで、セナ自身も相当うれしかったようだ。欣喜雀躍だったセナは、勝利のシャンパンをチーム監督のウォーに浴びせようとした。だが、ウォーのすぐ後ろにはレーニエ大公陛下がいらしたため、周囲が大慌てでセナを制止する一幕もあった。そして、翌年からは表彰式のトロフィー授与は大公陛下とご家族がいらっしゃるロイヤルボックスで行うが、シャンパンはロイヤルボックスから降りてから行うというように、手順が変更された。以後、セナはそのモナコでの新手順の表彰式の常連のようになった。
さらにこの87年はセナのしたたかさと、セナが大慌てするような事が起きた。そして、それらはマクラーレン・ホンダ時代の強さにもつながる出来事だった。
2014.11.28 column.06
87年のアイルトン・セナは、ホンダエンジンとアクティブサスペンションを得た。だが、決して楽な戦いではなかった。ロータス・タイプ99Tは同じエンジンを搭載したウィリアムズFW11Bにかなわなかった。そんななかでセナはそのしたたかさを存分に発揮した。
ウィリアムズの2台が逃げていく中、セナは3番手となり、迫ってくる後続を抑えてしまう。しかも巧みなライン取りで絶対抜かせなかった。結果、セナの後ろにフェラーリ、ベネトン、アロウズなどの隊列ができ、この状態を「アイルトン・セナ・ドライビングスクール」などとも呼ばれた。こうした展開が多くなり、他チームのファンやメディア関係者からは「またかよ!いいかげんにしてくれ!」という批判もあった。ウィリアムズ勢の独走を許し、セナ以下はこう着状態という、つまらないレース展開になりがちだったからだ。だが、ロータスのマシンを知る者にとっては、「見事!」という思いだった。
87年のロータス・タイプ99Tに搭載されたアクティブサスペンションは、83年にF1デビューした時のロータス・アクティブよりもはるかに進歩していた。が、まだ92年頃のハイテクF1マシンに搭載されたものよりもかなり劣っていた。当時アクティブを発明し、その開発を担当したロータス・エンジニアリングのピーター・ライトは、後年この違いについて「コンピューターの演算処理能力の進化によるところが大きい」と話してくれた。つまり、87年の時点ではロータスが単独でどう頑張っても未完成な技術だったのだ。
アクティブサスペンションは、そもそもサスペンションを動かすことで車体の底面と路面との間を常に同じ間隔と角度に保つというもの。これで車体の底と路面との間を流れる気流から発生する大きなダウンフォースの量を一定にさせ、ダウンフォース量の変化による車体の激しい縦揺れを防ぐうえ、ドライバーとマシンにより大きなダウンフォースをより安定して与えることで、より速いコーナリングを可能とさせるものだった。
だが、87年のタイプ99Tに搭載されたアクティブは、搭載されたコンピューターの処理能力の限界からサスペンションが動き出す反応が遅かった。例えば、ブレーキを掛けるとまずノーズが沈み、ワンテンポ遅れてアクティブの働きでフロントサスペンションが踏ん張りだし、ノーズが元の高さに戻るというものだった。そこで、セナは少し手前で軽くブレーキをかけて、これに反応したアクティブがフロントサスペンションを踏ん張らせたところで本当のブレーキをかけた。このようにセナは常にコンピューターの処理速度と反応遅さに対応したドライビングをしていた。セナ自らの主張で実戦投入を実現させたアクティブだったが、セナはこの新たなる武器の利点を活かそうとすると同時に、その弱点を見事に補っていた。これで予選でも速さを見せ、決勝では自らのアクティブのコンピューターをなだめすかしながら、同時にライバルをきっちり抑え込むライン取りとバトルも繰り広げていたのだった。
フリー走行や予選、日曜日のウォームアップでサスペンションのセッティングを変更するのにも、他チームがスプリングやダンパーを換えるなど従来通りのメカニカルな作業をしていた一方、チーム・ロータスはまずラップトップコンピューター(当時はバックライトも中間トーンの表示もないモノクロ液晶で、画面もやや小さかった!)を車体に接続した。エンジニアとドライバーがインカムで会話をし、それをもとにエンジニアはキーボードをたたく。そして、コンピューターを外すとまた走り出すという、他とはまったく異なるプロセスをしていた。この光景に、なにか「新時代の技術」の到来を感じた。そして、それを見事に使いこなすセナに「新時代のヒーロー」の登場を感じていた。
2014.12.05 column.07
1987年9月3日。イタリアGP開催直前の木曜日。モンツァサーキットがあるモンツァ公園内のレストラン、サンジョルジョ・プリミエールのガーデンテラスで、1988年からホンダがマクラーレンにエンジンを供給し、そのドライバーにはマクラーレンでチャンピオンを2度獲得したアラン・プロストとともに、ロータスからアイルトン・セナが移籍することが正式に発表された。これでセナは、ずっと抱いていたホンダエンジンとともにマクラーレンに移るという理想を実現した。しかも、条件もほぼ希望通りアラン・プロストと同等の待遇を得ることにも成功した。
この発表は直前までなかなか最終決定が出ず、会場を確保することも、発表の案内を出すことも、リリースを出すことも、本当にギリギリでの広報対応作業となり、とても苦労した。だが、発表にこぎつけるまでにと苦労したのはアイルトン・セナだったかもしれない。一度はその戦略が根底から覆されそうになったのだから。 発表の1か月の8月6日木曜日、ハンガロリンクでチーム・ロータスは1988年にネルソン・ピケがウィリアムズから移籍することを発表した。これはセナにとって大打撃だった。なぜなら、セナはマクラーレンとの加入交渉のなかでロータス残留の可能性をちらつかせながら、「自分が行く先にホンダエンジンも行く」ということで、より良い条件を引き出そうとした。そうして、プロストがエースとなっていたマクラーレンでナンバーツー待遇ではなく、ジョイントナンバーワンの対等な立場を得ようとしていたからだ。だが、チーム・ロータス側はこれにはお構いなしで発表をした。どうやら、セナの離脱が明白になっていたことや、この年頭のセナによる突然の賃上げに対するロータス側の反撃でもあったようだ。
ヨーロッパの真夏の日没は遅い。8月6日の日が傾き、報道関係者がほとんど帰った頃にセナはそっとホンダのモーターホームにやってきた。
「サクライはいる?」声もか細く、不安でいっぱいな感じだった。
しかし、お目当ての桜井淑敏総監督以下ホンダの技術スタッフは全員サーキットを出た後だった。そのことを伝えると、セナはとても落胆した表情となった。だが、チームの宿泊先はわかっていたので、そのホテルの名前と住所と電話番号をメモにして渡すと、セナの顔にやっと表情に生気が戻り、少し笑顔がもどった。
今回の特別版のインタビューのときに桜井氏にこのことを聞くと、当日セナと会って話したようだったが、ハンガロリンクのパドックでこんなやりとりがあったのはご存じなかったという。いずれにせよ、ロータスによって移籍交渉の戦略を一度は足元から救われたセナは、このブダペストでの話し合いでなんとか体制を立て直した。そして、1か月に冒頭の正式発表にこぎつけたのだった。
そして、晴れやかな気分で、鈴鹿で初開催の日本GPへとやってきた。土曜日の夕方だった。大勢でごった返すグランドスタンド裏で、筆者はセナへの紙袋をことづかった。それを託されたのは、特別版のインタビューにご登場いただいた菅家安智さんだった。菅家さんからの法被のプレゼントを見たセナは、「すがやさん、あいたかった。すがやさん」と心から嬉しそうにしていた。迎えた決勝でのセナはピケを抑えこんだ。ピケはセナの巻き上げたタイヤカスなどがラジエーターにつまりオーバーヒート。これでエンジンを壊してリタイヤとなった。セナはハンガリーでロータスの発表の片棒を担いだピケへの仕返しをすることにもなった。だが、これでフェラーリのゲルハルト・ベルガーの逃げ切り優勝を許してしまうことになった。レース後のホンダチームのオフィスでは、「セナのバカヤロー!」と、怒鳴るホンダF1チームのスタッフもいた。地元戦での敗北でささくれたスタッフの心をいやしてくれたのは、満面の笑みで「ありがとう、ありがとう」とダブルタイトルを獲得したことを讃えて、チームの労をねぎらった本田宗一郎さんだった。
そして、最終戦オーストラリアGPを終えると、帰りにまた東京で本田技術研究所主催の祝勝パーティーが行われた。鈴鹿で負傷したナイジェル・マンセルを除くホンダの全F1ドライバーが参加した。セナはちょっと遅れて会場にやってきた。視点を変えればピケとウィリアムズとの祝勝会でもあったこの会が嫌だったようだ。実際、会場で筆者に会ったとき、最初は笑顔で「元気?」と声をかけてきたのだが、チャンピオンを獲得したピケのピン(バッジ)を着けているのを見た瞬間、真夏の夕立のよう表情が一転してかき曇り、口をきかなくなってしまった。こちらは広報担当で、チャンピオン獲得ドライバーのピンを会場でつけるのも役割のうちだったので、当時のセナの反応を子供っぽい性格だなと思った。だが、独りで戦っていたセナは激しいライバル意識と孤独感の相克のなかで、本当は頼れる仲間を探していたのだろうということを後に理解することになった。
2014.12.12 column.08
1988年、アイルトン・セナは晴れてマクラーレンのドライバーとなった。ホンダエンジンもともにマクラーレンのパートナーとなり、チーム名は「ホンダ・マルボロー・マクラーレン」となった。セナのチームメイトは、84年以来マクラーレンに在籍し、85、86年チャンピオンを2度獲得していたアラン・プロスト。プロストにしてみれば、85年にニキ・ラウダを打ち負かして獲得したエースの座をやすやすとセナに渡す気はないはず。セナは、自分がホンダエンジンを持ち込んだのだから、エース待遇は当然と考えていたはず。87年のウィリアムズ・ホンダ内でのネルソン・ピケ対ナイジェル・マンセル以上にやっかいな状況になるだろうなという不安が最初からあった。
開幕前のリオテストには、筆者は行かなかった。今と異なり、テストには広報スタッフは帯同しないのが普通だったからだ。新型マシンMP4/4は、テスト投入が遅めだったわりには、走り出しから好調だという連絡が来ていた。マクラーレン、ホンダ、セナへのブラジルの期待は大いに高まったところで、開幕戦をリオで迎えた。 海辺の湿地のようなところにあるジャカレパグアサーキットはとても蒸し暑く、日中は気温40度にも達した。それでもスタンドの観客は朝から、サッカーのサポーターたちのようにみんなで歌ったり、踊ったり、大盛り上がり。このリオのサーキットは、2本のストレートが平行していて、ピット前のストレートの前には観客席はない。もう一本の長いストレートの外に長大なスタンドがあるが、そこはピットからは遠い。それでも、セナがピットに現れると観客席はめざとくセナを見つけて大いに盛り上がった。そして、セナがピットから走り出すと、長大なスタンドの観客から大歓声が沸き起こり、そのスタンド前のストレートをセナが駆け抜けると、大歓声のウェーブもMP4/4と同じスピードで走り抜けた。
「アイルトンは、愛国者のようだから、とても好かれるのよ」と、ジニーさんというホンダの現地法人の女性スタッフが話してくれた。ジニーさん自身セナのファンだった。ジニーさんとは20年後にサンパウロで偶然再会した。それはともにアイルトンに導かれたかののような再会だった。確かに、セナはヘルメットの色遣いもブラジル国旗と同じだし、時間があるときの丁寧なサインには“BRASIL 88”のように“ポルトガル語綴りのブラジル”と西暦を添えていた。それに、このころから、ブラジルのために、ブラジル人としてというコメントが目立っていた。「国民的英雄」そんな言葉が頭をよぎり、アイルトンとともにブラジルで戦うことへの誇らしさも感じた。だが、ブラジルGPでセナは勝てなかった。状況はDVDの中で紹介されているとおりだ。だが、第2戦のサン・マリノGPでセナは優勝。その速さをいかんなく発揮した。続くモナコGPでも圧倒的な速さで独走状態となっていたが、あと少しというところでポルティエコーナーでガードレールに接触してリタイヤしてしまった。速さの中のもろさ。当時のセナの弱点を見たように思えた。それはセナ自身が痛感したようだ。セナはクラッシュのあとそのまま自分のアパートに帰ってしまった。くやしさ、恥ずかしさ、自分への怒り、なさけなさなど、さまざまな思いが複雑にからんだ、まさにコンプレックスな思いになってしまったのだろう。だが、セナがアパートに帰ったというのを知ったのは、かなり後のことだった。レースが終わり、ホンダのモーターホームはゲストやメディアの皆さんの来客でにぎわっていた。メディアのお客様への対応や、飲み物や軽食のサービスを手伝ったりしていると、マクラーレンのロン・デニス代表がものすごい形相でやってきた。「アイルトンは来ていないか?」とデニス。「いませんよ、どうしたんですか?」と答える。
「本当にいないのか?」とデニスは疑い深い顔と厳しい口調で再度聞く。しつこいなと思いながら「どうぞご自分で中をご覧ください、いませんから」と、答えると、デニスはモーターホームの入り口から車内を覗き込んだ。「もし、アイルトンが来たら、マクラーレンの私のところに来るように言ってくれ!」と、言い残してデニスはその後ろ姿にくっきりと怒り感情をたたえて帰って行った。 少ししてモーターホーム入口脇のキッチンのところを見ると、そこに「R.D.」と書かれた無線機があった。モーターホーム内を覗き込んだ時のデニスの忘れ物だった。それをマクラーレンチームに届けてあげると、マクラーレンのスタッフからアイルトンがアパートに帰ってしまったらしいということを聞いた。
当時は「なにもそこまで思いつめなくても」と思った。アイルトンの速さとMP4/4とRA168Eエンジンがあれば、また何度も勝てると思ったからだ。アイルトンの気持ちが落ち着いたのは、僕がホンダの世界中の現地法人にレース結果とレポートのFAXを送り終えたころだったようだ。つまり、夜中を回っていたということである。だが、あの時のアイルトンは、エースの座をプロストに独占されたくない、そのためにはなんとしても自分自身の力と結果で道を切り拓かなければならないという思いがとても強かったのだろう。後年自分も独りですべてをやるようになって、あのときのアイルトンの気持ちがよくわかるようになった。そして、あの失敗と敗北はアイルトンにとって大きなダメージである反面、あれがまたアイルトンをより強くしたのだと思った。失敗はできればしたくない、でも失敗したらそこから同じ失敗を繰り返さないという強い意志を持ち、対策を講じることで、その失敗があらたな成功を産むきっかけにできるということを、アイルトンは実例をもって教えてくれたと思っている。
2014.12.19 column.09
1988年のマクラーレン・ホンダのなかですでにセナ対プロストの戦いが始まっていた。アラン・プロストにしてみれば、マクラーレンは1980年にF1デビューを果たしたチームであり、ルノーを経て1984年に再び戻ったチームであり、ニキ・ラウダからエースの座を引き継いだ「自分のチーム」と確信していたはずだった。一方、アイルトン・セナにしてみれば、勝利のための重要要素であるホンダのエンジンは自分が持ち込むのであり、プロストと並び立つエースとして扱われるべきと考えていたはずだった。 ただ、1988年の前半には、二人とも初日から激しく戦うところを見せなかった。というのも、同じホンダエンジンを搭載したロータスと、やはりターボエンジンを選択してきたフェラーリという脅威があり、それに対抗するにはチームのまとまりが必要だったからだ。だが、シーズン序盤を過ぎると、マクラーレンMP4/4・ホンダの実力は卓越していることがほぼ見えてきた。途中、イギリスGPでフェラーリが巻き返して来たものの、ホンダは緊急追加予算を投じて、来年から3500cc自然吸気規定なるためこのシーズン後半しか使わないRA168E・V6ターボエンジンさらに改良。フェラーリに引導を渡した。すると、マクラーレンの二人は、互いに「倒すべき相手は一人だけ」となり対抗意識はより強くなった。 シーズン前半にセナとプロストがあまり激しくぶつからなかったもうひとつの理由は、当時のグランプリ週末の過ごし方にもあった。とくにプロストは従来のドライバーのやり方で過ごしてきたからだ。それは、金曜日と土曜日の予選ではグリッド上位につければ充分として、ポールポジションにはこだわらなくなっていた。一方で、決勝レース用のセットアップを試す日曜日朝のウォームアップ走行で最速なマシンとして、これで決勝を有利に展開するという戦法だった。これに対してセナは、予選初日から常にトップタイムを独占して、その速さと勢いと集中力を決勝まで維持しようとする戦いかただった。簡単に言うと、常に自分が一番速いというところを見せ付ける戦法だった。このグランプリ週末の戦いかたの違いが、二人を決勝前までは比較的穏やかにさせていたように思えた。 だが、フランスGPは唯一の例外だった。プロストのタイムをセナが上回ると、普段はそこでタイム更新合戦が終わるのだが、ポールリカールでは金曜日からプロストはさらにアタックに出て、またタイムを更新。強さだけでなく本当は速さもある!祖国フランスではフリー走行も予選でもひかない!という断固とした姿勢をみせた。この1988年フランスGPでのプロスト姿勢には、彼の祖国への愛国心が見えた。後にプロストはウィリアムズでF1に復帰し、1980年代には思いを果たせず失意に終わったルノーとのチャンピオン獲得を1993年に果たした。この1988年フランスGPの光景を思い出すと、プロストの一環した想いもわかった。 そして、1988年のフランスGPから1993年までプロストが勝ちたいという感情をよりあらわにするほど、セナの闘争心もより燃え上がり、セナはレースを終えた後により深い充実感を感じていたのだろうと思った。これがスポーツにおけるライバルの素晴らしさであり、1994年のサンマリノGPでセナが亡くなる直前に、解説者となったプロストに無線で伝えた言葉は、セナの心からの声であり、想いだっただろうと思う。そこには、善玉セナ、悪玉プロストのような安易なキャラクター設定による安っぽい作り話では語りきれない、二人だけの深遠で崇高な関係があったと思う。
ただ、彼らには自分たち自身ではどうにもできないものも動き始めていた。赤白青のフランス三色旗柄のヘルメットのプロスト、黄青緑のブラジル国旗柄のヘルメットのセナ。そのシンボリックなカラーは、二人がそれぞれの祖国に抱く想いとは別に、周囲で大きな力が働きはじめていたようにも、この1988年から筆者は感じていた。
2014.12.26 column.10
赤白青のフランス三色旗柄のヘルメットのプロスト、黄青緑のブラジル国旗柄のヘルメットのセナ。そのシンボリックなカラーは、二人がそれぞれの祖国に抱く想いとは別に、周囲で大きな力が働きはじめていたようにも、この1988年から筆者は感じていた。
前回こう締めくくったが、このことはシーズン終盤になって、セナとプロストのチャンピオン争いがより激しくなると、より鮮明化してきたのだった。
前半はプロスト優勢で展開していた1988シーズンだったが、中盤になるとイギリス、ドイツ、ハンガリー、ベルギーでの4連勝からセナが優勢となってきた。そして終盤戦はポルトガルとスペインのイベリア半島での連戦となった。ここでセナもプロストも激しく争い、その激しさゆえに二人ともひどい疑心暗鬼になっていた。
セナは燃費がマイナス表示になりがちになって勝てない。プロストはコーナーからの立ち上がりが遅い。互いに相手よりも不利なところがあった。これをセナとプロストは互いに、ホンダが相手を勝たせようと画策しているからだと疑ったのだった。
だが、現実はそうではなかった。セナはレーシングカートのスロットルワークと同様にコーナー通過中にスロットルペダルを頻繁に動かし、スロットルを開閉させる。「セナ足」と呼ばれたこの操作は、勢いのある排気ガスをターボチャージャー送ることになり、ターボエンジンにとって過給状態を保ち、次の立ち上がり加速を良くしていた。反面、スロットルをあおるぶん燃料を消費し、150リットルのタンク容量だけで走りきることが求められた1988年のレギュレーション下では「マイナス表示」(=このままでは完走するのに燃料が不足)という警告がコクピット内のパネルと、ピットのテレメトリーに出てしまうのだった。
一方、プロストはスローイン・ファストアウトのきれいなコーナリングをする。スロットルを閉じてブレーキング、旋回、立ち上がりでスロットルを徐々に開けていく。これは、ドラインビングのお手本になりそうなほどのコーナリングなのだが、ブレーキングから旋回の間スロットルを閉じている時間が長くなる。そのため、ターボチャージャーには勢いのある排気ガスが入らなくなる時間ができ、過給不足となる。そして、コーナーの立ち上がりで加速したいときにスロットルペダルを踏んでも、最初は過給不足なのでパワーが足りず、加速が遅れてしまうという訳だった。反面、スロットルを閉じている時間が長いぶん、燃費はセナよりも楽になった。
だが、セナとプロストはともに自分のドライビングスタイルには目を向けなかった。それぞれが異口同音にホンダがエンジンのコンピューターを細工して自分に不利なようにしていると言い放ったのだ。だが、現実はホンダのレースエンジンチームで電装系を担当する8研(本田技術研究所の第8研究室)のスタッフたちが、PGM-FI(電子制御燃料噴射)のプログラムの細部だけをセナとプロストのそれぞれのドライビングスタイルに合うように微調整してあげていただけだった。そして、このPGM-FIの基本部分はもとより、エンジンやターボチャージャーなどすべてセナとプロストに平等なものが供給されていたのだった。そのために、ホンダはエンジン製作、物流などで多大な努力も払っていた。
セナとプロストは、それぞれにホンダへの疑念をとりまきのメディアの前で話した。二人の激しい戦いを追うメディアにとってこれは格好の題材となり、「ホンダがチャンピオン争いを不正に操作している」と喧伝するところまで出てきた。当時、広報にかかわっていたものとしては困った話だった。
しかもそこに、FISA(国際モータースポーツ連盟=現FIA・モータースポーツ)会長のジャン・マリー・バレストルまでもが介入し、ホンダに対して公開書簡の形で「二人に平等なエンジンを供給するように」と発表した。これを日本GP前に見たとき、筆者は「バレストルは何を考えているのだろう?」と思った。この書簡を公開することで、FISAはセナとプロストの言葉をもとに一部のメディアがでっち上げた「ホンダ操作説」を追認する形になり、ホンダだけでなくモータースポーツ界全体が営々と努力して築きあげてきたスポーツの公平性のイメージを自ら貶めてしまうことになるからだ。むしろFISAは、F1とモータースポーツ界全体の公平なスポーツのイメージを守るためにこうした事実無根の噂話に反論を出すべき立場だった。こんなバカげた質問状だったが、ホンダはすぐに、これまでと同様にこれからも平等なエンジンを供給する旨の声明を当時の社長名で公開し、スマートな対応をした。
セナとプロストの周囲には、メディアでも2大勢力のようなものがあった。セナの周囲にはブラジルやポルトガルを中心に、日本などのメディアが多かった。プロストの周囲にはフランスを中心にヨーロッパ大陸のメディアが多かった。もちろんここに書いたのは極端な傾向で、実際はその両方を行き来しているものが多い。
とくにプロストの周りにいるヨーロッパ大陸派は、ヨーロッパは歴史と伝統があるモータースポーツ先進国であり、モータースポーツは自分たちのスポーツという自負と誇りがあった。反面、中南米や日本のような「新興勢力」のようなところが台頭してくるのは、あまり快いものではなかったようだ。セナがF1デビューしてからずっと「悪童」とか否定的な表現がつきまとったのも、先輩たちに挑みかかるセナを見るたびにそうした思いが心の底からわき出てきた結果だったのだろう。それでも、普段はその人たちの良識がその思いにブレーキをかけ、そうした思いを心の底に押し沈めさせていたようだ。だが、その差別的な思いを激しく、ストレートに出す男がいた。それが、FISA会長のジャン・マリー・バレストルだった。
2015.01.05 column.11
ヨーロッパでは、自分たちこそが歴史と伝統も備えたモータースポーツ先進国であり、モータースポーツは自分たちのスポーツという自負と誇りがあった。反面、中南米や日本のような新興勢力が台頭してくるのを快く思わない人たちもいる。ヨーロッパのメディアでセナがF1デビューしてからずっと否定的な表現がつきまとったのも、そうした差別的な思いが心の底からわき出てきた結果だったのだろう。それでも普通は良識がブレーキをかけ、そうした邪な思いを心の底に押し沈めさせて、紳士面をするものだ。だが、その差別的な思いを激しく、ストレートに出してきたのが、FISA(=現:FIAモータースポーツ)会長のジャン・マリー・バレストルだった。
バレストルは第二次大戦中、ドイツ占領下のフランスでナチの親衛隊に所属していた。ナチの親衛隊は西ヨーロッパの民族と文化を至上とし、その他を激しく卑下するという、狭量な主義と主張をかかげていた。戦後バレストルは自身の親衛隊入隊についてレジスタンスのための諜報活動のために“潜入”しただけとして、追求を逃れた。この変わり身の速さと上手さと強引さが、バレストルを戦後のフランスの出版界とモータースポーツ界で成功へと導いた。そして、FISA会長としてF1やモータースポーツ界に大幅な安全対策の導入も実現するという功も成した。
FISA会長になったバレストルは、むしろ会長として独裁的な強権を得たことで、その差別的な人柄がより悪化していったようだ。ホンダがV6ターボエンジンで台頭するようになると、ホンダの総監督だった桜井淑敏氏に対して「黄色い禍」とか「F1にイエローはいらない」という人種差別的な言葉を吐き捨てたという。バレストルは、当時のF1開催国のなかでも、日本やメキシコやブラジルではいつも以上に威圧的で差別的な態度をとった。反面、ヨーロッパでは権力者として強権は発動したものの、その開催国や選手の優位性を認める態度をとった。なかでも自国フランスを優遇した。アラン・プロストが好むと好まざるとにかかわらず、バレストルがプロストに肩入れするのは当然だった。しかも、フランス人のプロストに対抗するのは、ブラジル人のアイルトン・セナだった。
1988年に初めてチャンピオンを獲得したセナだったが、翌1989年も同じマクラーレンに乗るプロストと激しく覇を競いあった。その激しさは、前年の後半のときをさらに超えたものだった。その激しい戦いがピークに達したのが日本GPだった。
日本GPでの詳しい顛末はDVDにも紹介されているし、多くのメディアにも扱われているのでここでは詳しく書かない。しかし、セナがレース除外とされたのは事実である。そして、バレストルはセナを危険なドライバーと一方的に非難。これにセナが反論すると、バレストルは、セナがFISAと会長へ批判したといういいがかりをつけた。そしてFISA会長としての権限を使って、セナが発言を撤回して謝罪しないかぎり1990年のライセンスを発給しない、つまり参戦させないとしてきた。それは、かつてナチ親衛隊が国内や占領地で目をつけた団体や人にいいがかりをつけ、少しでも反論すればそれを口実に激しく弾圧するというやりくちを見ているようだった。結局、この問題はマクラーレンチームが間に入ることで解決。ぎりぎりの段階でライセンスを得たセナは、やっと1990年シーズンに参戦できるようになった。
このバレストルがセナに対してやったことは、F1を含むモータースポーツを統括する競技団体であるFISAの会長としては明白な越権行為であり、会長としてあるまじき行為だった。だが、当時FIAの会長も兼任して強大な独裁者となっていたバレストルをいさめられるものはFISA内にはいなかった。この独裁者の退治は、1991年のFISA会長選挙でマックス・モズレーが勝利するまで待たなければならなかった。モズレーは、それまでバレストルに不当に扱われてきた中南米、日本を中心としたアジア、アフリカの票と支援をもとに勝利したのだった。
そんな独裁者バレストルに対して、セナはレーサーの本文であるサーキットでの速さと強さと結果で対抗しようとした。勝つために、セナは自分にも周囲にもより厳しくなっていったようだ。
2015.01.13 column.12
アイルトン・セナとアラン・プロストの戦いは、1988年のチームメイトになったときから激しかった。そして1989年になるともっと激しく争った。それは、このDVDでも記録されている。セナもプロストも互いに自分がチャンピオンになるために、倒すべき相手はただ一人という状況だった。そしてそれは、チャンピオンかけた戦いだった日本GPでクライマックスとなり、シケインでの接触となった。
あの1989年の日本GPでプロストは、土曜日の夕方にフランスのメディアの囲み会見をピット裏で受けた。そして、決勝の戦略を公言していた。それは、スタートで前に出れば、あとは1コーナーとシケインさえ注意すればセナを抑えてチャンピオンになれるというものだった。プロストと筆者の視線の先には、ちょっと離れて聞き耳を立てているセナの姿があった。セナはフランス語がわかるので、当然この内容がわかっていたはずだ。
決勝のスタートでプロストは前言どおり前に出てセナを抑えまくった。しかも、プロストのマシンはスタート前にリヤのガーニーフラップを外していたので、コーナーではやや遅くなるもののストレートでは速い。これでセナにとって追い抜きはより難しいものになった。だが、46周目のシケインでプロストはややインを甘く進入した。セナはそれを見逃さなかった。前日のプロストの言葉も思い出し、プロストの戦略が崩れたと思ったかもしれない。しかし、結果は2台接触。最後はバレストルの介入もあってプロストのチャンピオン確定となったのは前回記した。
このプロストの罠のような言葉とやりかたは、一見ずるいように見えるが、究極の戦いをするための戦術のひとつでしかない。レースはチームやメーカーの総合力の戦いでもあるが、最後はドライバー対ドライバーの人と人との勝負になる。そこでは、ドライビングの技量と体力の勝負になるのはもちろん、精神的に優位な立場に立つことや相手の弱みを揺さぶるという心理戦も駆使される。それはプロストとセナの間に限ったことではなく、どの時代のどのレースでも起きる事だ。
1990年、プロストがフェラーリに移ると、二人の戦いはさらに激しくなった。チャンピオンを争うだけでなく、その戦いはフェラーリ対マクラーレン・ホンダというチームとメーカーの威信もかかってきたからだ。セナもプロストも当時は互いに最も嫌な奴だったはずだ。
「こいつを殺したい、こいつさえいなければ」。星野一義と中嶋悟が日本一をかけて激しく争っていた時代を振り返り、レース日の朝には互いにそう思っていたと告白してくれた。現役時代のセナとプロストもまさにそんな感じだった。星野と中嶋も今は現役を引退して、互いにチームを率いる立場になった。今は現役時代の互いの思いを端々にライバル意識をのぞかせながらも笑いながら話す。そして、互いに自分たちの戦いと、最高のライバルへの敬意をみせる。セナがもし今生きていたら、プロストとの関係もこの星野と中嶋に似たようなものだったのではないかと思える。打ち負かすべき相手がただ一人なら、その相手はただ一人心も考え方もやり方もわかる奴であり、どれほど激しく争い、どれほど憎らしく思っても、ただ一人心の中のどこかで理解しあえる相手でもあったはずだからだ。それほどセナとプロストの戦いは崇高だった。だからこそ、さらにプロストに肩入れした介入をしたバレストルの行為も、セナ対プロストの対決をより際立たせようとするあまり善玉と悪玉のような安易なストーリーをあおり、ときにはカメラの前で見せかけの和解の握手を求めたメディアの行為も、当時すべて陳腐に見えた。
一方、今回のこのDVDはセナを主体にしながらも、より客観的で正当な展開の仕方のように思える。やっとこうした展開ができるようになった。そして、セナが生きていたら、このDVDの姿勢には納得してくれるだろうと思った。だからこそ、このDVDの監修を担当させていただいた。
2015.01.16 column.13
「こいつを殺したい、こいつさえいなければ」。星野一義と中嶋悟が日本一をかけて激しく争っていた時代を振り返り、レース日の朝には互いにそう思っていたと告白してくれた。現役時代のセナとプロストもまさにそんな感じだった。
前回、アイルトン・セナとアラン・プロストの関係をこのように記した。
こんな思いがピークになったのが1990年の日本GPだっただろう。
セナは前年シケインでの接触からレース除外処分となり、チャンピオン争いに敗れた。しかも、FISAのジャン・マリー・バレストル会長から「危険なドライバー」として不当な批難を受けた。そして、それに反論したら今度は1990年のライセンスを発給しないと脅された。それでも、セナは1990年のチャンピオン奪還かかけて、フェラーリに移ったプロストとまた激しく戦った。
そしてチャンピオンを争いのクライマックスとなった日本GPで、またしてもバレストルの介入があった。予選でトップタイムを獲得したセナは、ポールシッターの権利として、ポールポジションの位置をイン側ではなくアウト側にしてほしいと要求した。アウト側のほうが走行ラインで路面状態も良く、有利だったからだ。ところがバレストルは、ポールポジションはイン側であると圧力をかけて、競技審判らにセナの要求を却下させた。余談だが、現在はコースごとにポールポジションの位置はイン側、アウト側で変わるようになった。この改善実現の裏には、この1990年日本GPでの問題も考慮されていたという。
これでセナはスタート前の段階からすでに不愉快だった。さらに前年のシケインでの接触、バレストルの不当な批難などで頭の中がいっぱいになったはずだ。セナにとって、バレストルが肩入れし、しかもチャンピオンを争うプロストがどうしようもなく鬱陶しい存在だったはずだ。そのうえ、このときのセナの立場は前年のプロストと同様に、両者リタイヤならそこでチャンピオンが確定し、今度はセナが王者になるという状況だった。
スタートに向けて、筆者は1コーナーイン側のメディアが立ち入り可能なエリアの最先端に位置した。そして、スタート。目の前でプロストがややインをあけた。そこへセナが飛び込んだ。両者接触。アウト側へ飛び出す。
「アイルトン、やったな、復讐したな」と、筆者はとっさに思った。
その次のオーストラリアGPで、筆者はある雑誌の依頼もあり、この接触について多くのF1関係者のコメントをもらった。そのなかで、サー・ジャッキー・スチュワートさんとサー・ジャック・ブラバムさんは、とても厳しい見方をしていた。スチュワートさんは冷静な分析を交えてくれたが、ブラバムさんとても激しい言葉で叱責した。お二人とも、セナ、プロストによる日本GPでの接触は意図的に行われたもので、セナが強引にインに飛び込んで接触を引き起こしたとみていた。そして、スタート直後の最前列で接触事故を起こすのは後続の大混乱と多重衝突を誘発してしまい極めて危険であり、チャンピオンを経験したトップドライバーたちとしてあるまじき行為としていた。後年、このときのスチュワートさんによるセナに対する厳しい叱責のようなインタビューが有名になるが、それはスチュワートさんのセナへの次代を担うトップドライバーとしての高い期待が、あの接触で裏切られたようになり、その落胆も大きかったから、あのようなものになったのだなと思った。
当時のF1のパドックではあの接触は意図的なもので、もっぱらセナが前年の復讐の意味もこめてやったのだろうという考えが多かった。
一方、日本では当時メディアが創りあげた「貴公子」「聖人」セナ像が独り歩きし、セナは大人気だった。おかげで、件の鈴鹿1コーナーでの接触事故もセナは悪くない、プロストが悪いという偏った意見がとても多かった。この状況に、違和感と危機感を抱いた。
違和感。セナは聖人でも貴公子でもなく、レーシングドライバーとしてただひたすらより速く走ることに専念する“人”であるということが無視され始めていたように思えた。セナはよく「僕は偶像ではなく、一人の人間だ」と、言っていた。このセナが大切にしていた姿勢と、日本でのセナの扱いは大きくかい離していたように感じた。
危機感。当時のF1界、とりわけF1ブームだった日本では、極端で偏ったほどの「偶像」としてのセナ人気に頼りきった状況だった。「聖人君子」のように祀り上げられた「セナ様」が鈴鹿の1コーナーでの出来事を「自分が故意にやった」といったら、その期待を裏切ることにならないか?そのとき日本でのF1人気はどうなってしまうのか?あるいは、万が一セナがクラッシュで大怪我したら、セナ人気に頼ったF1の人気はどうなってしまうのかというものだった。これは考えたくないことだったが、当時のF1は現在のような高い安全性は確保されておらず、なにかあれば誰でも選手生命や命そのものに危険が及ぶ恐れを抱えていた状況だった。そのため、どうしても避けては通れない危機感でもあった。
そして、そのひとつは1年後に訪れた。
翌1991年の日本GPで、セナは2年連続で、自身3度目のチャンピオンを獲得。そのレース後の会見はセナによる長時間の独演会となった。そのなかで、1989年のシケインでの出来事、バレストルによる介入と「危険なドライバー」という不当な批難をされたことなどについて涙ながらに語り、前年の1コーナーでの接触についてもこうした一連の出来事に対する思いから故意にプロストにぶつけてやったと告白した。
あの会見でのセナの涙は、それまでの怒り、不満、エースとして戦う大きな重圧と使命感、すべてが終わったあとの達成感と安堵感など様々な想いがとても複雑に入り混じったものにみえた。
涙ながらに延々とセナはしゃべった。筆者はこのときホンダのプレスリリースの英文和訳を手伝っていて、ホンダF1の現地広報担当のエリック・シルバーマン、マクラーレンの広報のマーティン・ウィテカーとこの会見の様子をテレビモニターで見ていた。20~30分くらい過ぎたころだっただろうか?シルバーマンがつぶやいた。
「これじゃあアイルトンのコメントがとれないし、プレスリリースがいつ出せるかわからないな」。だが、その表情には仕事が進まないという困惑はあるものの、むしろ好意的な笑顔が現れていた。
それを受けて、ウィテカーは満面の笑みでこう返した。
「アイルトンの好きなようにさせてやれよ。ずっと心の中に抱えてきたことなんだろう?吐き出したいことがいっぱいあるんだろうよ。リリースが遅れたってどうってことないさ。どうせレース中の出来事とかはみんなわかっているんだし!」。
シルバーマンも筆者も、ウィテカーの言葉に賛同した。
1991年日本GPでのマクラーレンとホンダのプレスリリースの発行は遅れに遅れた。
2015.01.16 column.14
1991年、アイルトン・セナは、2年連続でチャンピオンを獲得。これで通算3度目の王座獲得となり、F1ドライバーとして頂点に立った。
その過程でセナは、マクラーレン・ホンダをけん引するエースとしての自覚と重責を感じていたようだ。
そもそもセナは、マシンをより良くすることにはとても積極的だった。1987年にホンダエンジンに乗り始めたときも、「ブースト圧」とかホンダの日本人エンジニアとの会話に必要な言葉は、積極的に日本語で覚えたほどだった。
翌1988年にはサーキットでこんなこともあった。
「今日は早く帰れそうだよ」と、当時のホンダF1チームの後藤治監督が土曜日の夜に話してくれた。つまりすべてが上手く行っていたということだった。そこにチームスタッフがこういった。
「セナが来ました!」
「ああ、また今夜も帰りが遅くなるな・・・」と、後藤監督は笑いながらつぶやいた。
聞けば、セナはレース前夜に詳細なところまで確認や打ち合わせをしようとし、そのために帰りが遅くなるのが常だったという。それでも、「勝つために」という共通の目標があったから、後藤監督もホンダのスタッフも、スポンサーとの活動を終えたあとわざわざサーキットに戻ってくるセナの姿勢を歓迎した。
そして、セナは「勝つために」という思いと行動をどんどん進めてくる。
1991年にホンダがV12エンジンRA121Eを投入すると、わざと日本のテレビカメラの前で以前のV10ほどのパワーがないと批判した。当時のホンダにとって、エンジンのパワーがないと言われるのは屈辱だった。また、あるときにはホンダのエンジニアからセナのために徹夜で整理してきたデータを渡されたら、「僕の望んだのはこんなものでなはい」と言い、そのデータのメモを握りつぶして、地面に捨てたこともあった。そのとき、そのエンジニアはセナをぶん殴ってやる!と思ったという。
おそらくセナは、過去4シーズンつきあってきたホンダの技術者たちの負けず嫌いな性格を良く知っていたのだろう。だからこそ、わざと公然と批判したりつらく当たったりすることで、さらなる奮起を促したかったのだろう。そして、当時のホンダのエンジニアたちはそれに応えていた。
当時のこうしたセナを見ていて、思ったことがあった。
「だんだん、アラン(・プロスト)に似てきているな」と。
プロストは、チームの弱点をみつけると、あえて非難することでチームの奮起と改善と強化を促そうとした。それが、ルノーでも、フェラーリでもチームとの軋轢と破局にもなった。セナは、自身が好むと好まざるにかかわらず、そんなプロストに似てきていた。戦い方も、圧倒的な速さはもちろんのこと、より決勝での勝利やポイント重視するようになり、これもプロストやネルソン・ピケのスタイルに似てきていた。これは、言い換えればF1の頂点を極めた王者の戦い方を身に着けたようだった。
一方で、セナは若手にも厳しくなっていた。1992年になるとミハエル・シューマッハーが成長してきた。若いシューマッハーはまるでかつてのセナのように、先輩であろうがチャンピオンであろうが遠慮容赦なしに積極的に挑みかかり、これが接触にもつながった。そんなシューマッハーに対して、セナは厳しく接した。それは、まるでかつてセナに対して厳しく接したニキ・ラウダら先輩ドライバーたちの姿のようでもあった。
アイルトン・セナに王者としての風格が備わったと同時に、ややもするとかつての若々しさにかげりがでて、むしろ衰えのようなものが感じられた。
実際、セナの姿はどこか孤独で、苦しそうにすら見えた。
1993年に、筆者は当時F1常任ドクターのシド・ワトキンス教授と談笑していたときにこう切り出した。
「最近、アイルトンがとても疲れているように見えます。どこか、精神的に疲れているように感じます。いっそ、アランのように1年休んではと思います」。
セナと親しかったワトキンス教授はこう答えた。
「君もそう思うか。私も同感だ。だから、アイルトンには休め、一緒に釣りでもしようといったんだ。でも、わかるだろう、アイルトンがなんて答えたか。それがアイルトンなんだ。あいつを止めることなんてできないんだよ」。
F1を代表するスーパースターとなり、大人気となったセナ。だが、マシンで速く走ること、レースで戦うことがなによりも好きだったセナは、その大好きな世界でなにか息苦しさを感じていたようだった。それは、スポットライトを浴びて華やかな姿の陰で、矛盾を抱えて苦しんでいる人のようで、気の毒にすら思えたし、心配で、つらく感じた。
2015.02.10 column.15
1992年、アイルトン・セナとマクラーレン・ホンダは、王座から転落した。これは、もっぱらマクラーレン・ホンダがウィリアムズ・ルノーに敗れたも同然だった。当時のF1はアクティブサスペンション、セミオートマチックギアボックスなどハイテク化が進んでいたが、それを地道にやってきたのがウィリアムズとルノーだった。一方、マクラーレンは保守的でその流れに乗り遅れていた。ホンダがアクティブやセミオートマチックなどの研究をし、それを提供しようと動いたくらいだった。
セナにとってさらに悪いことが続いた。この1992年でホンダがF1から撤退することになった。セナにとって、ホンダは少年時代からの憧れであり、ともにチャンピオンを勝ち取った仲間であり、これからも勝ち続けるための重要な要素だった。だから、ホンダに対して涙ながらに慰留を願い出た。しかし、企業決定は覆されなかった。
翌1993年、セナはマクラーレンとの契約更新をギリギリまで拒んだ。この年のマクラーレンはフォードHB・V8エンジンとなり、しかもそれはワークス仕様ではないカスタマー(市販)仕様という、勝ち目がなさそうなものだったからだ。だが、マクラーレンもフォード・コスワースも最善を尽くし、セナを支えた。これがセナのチーム残留へと動かした。
マクラーレンは、小型軽量なHBエンジンに合わせて、コンパクトで動きの良いマシンMP4/8を実現。パワー不足を運動性で補うようにした。コスワースは、ベネトンに行くワークス仕様は最高出力を提供する一方、マクラーレン用低・中回転からのトルクの出かたをより理想化し、MP4/8の運動性を高めるものとした。
「ピークパワーでは負けても、コーナーの立ち上がりで優って、続くストレートの3分の2を征してしまえば勝てるし、抜かれないだろう?」と、経験豊富なコスワースのテクニカル・ディレクターのジェフ・ゴダードは当時セナを説得したと、後年話してくれた。余談だが、この戦い方は、後にレッドブル・ルノーとセバスチャン・ベッテルが踏襲していた。
これを受けて、セナは絶妙なマシンコントロールでMP4/8・フォードHBを華麗に操った。エンジンパワーが重要となるサーキットではウィリアムズ・ルノーに先行されたが、ブラジル、ドニントン、モナコ、日本、オーストラリアで優勝。雨のドニントンはまさにF1史上に残る走りだった。
「あれは、勝つべくして勝ったレースだった」と、後年ゴダードは振り返ってくれた。
「もともと操縦しやすいエンジン特性にしていたし、エンジンマップも雨用にしてよりパワーの出かたを扱いやすいものにしていた。マクラーレンのマシンも軽快で、運動性が良かった。しかも、それをドライブしたのがアイルトンだったからね!」。
この1993年の走りは、まさにアイルトン・セナの真骨頂だった。だが、これがセナのスワンソング(最後の輝き)となるとは誰もが思わなかっただろう。
当時のF1はアイルトン・セナ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケら実力と個性を備えたスタードライバーたちが揃い、マシンの大幅な技術進歩とあいまって、世界的な大スポーツイベントに成長していた。そのなかでセナは中心的なスターだった。一方、F1の規模が拡大するなかで、メディアセンターにくるメディアの数も急増して行った。それは、一方で悪貨は良貨を駆逐するかのような状況も起きた。従来のメディアはF1やモータースポーツを愛している人たちであり、たとえ批判記事を展開してもそれは愛情のあるものだった。一方、この急成長以降のF1メディアは、F1が大イベントであるから「仕事として」来た人が増えた。そして、ドライバーの発言のコトバ尻をとらえては、センセーションを起こすイエロージャーナリズムのようなことが増えていった。スターだったセナはその格好の餌食とされた。そして、誠実に語ろうとすればするほど、その本意とはことなる記事や映像展開をされてしまった。しだいにセナは口を開かなくなり、思い悩んだ表情となり、サーキットにくるのが苦痛なのではないかと思えるほど、疲れた表情を見せるようなった。だから、前回に書いたように、シド・ワトキンス先生と心配もした。
そして、セナはその心の救いを聖書に求めるようになっていった。
2015.02.10 column.16(最終回)
「僕は偶像ではない」
F1を代表する大スターとして活躍していたセナは当時こう発言していた。それは後にセナ財団が残したセナの言葉のひとつになっている。その思いはよくわかった。神格化されるのは、セナにとって実に気持ち悪かったのだろう。日本もセナを異常とも思えるほど神格化したスターとしていた。だが、そうした神格化された扱いは、真実のセナの姿とはまったくかけ離れていた。だから、近年出たセナのドキュメンタリー映画を見たとき、いまさらこうした「神格化された真実ではないセナ」のゾンビが出てきたような思いだった。
筆者は1987、1988年にともにセナとチームとしてF1を転戦した。そのなかで見せたふだんのセナの姿は、コース上では抜群の集中力と速さをみせるトップドライバーだった。とくに予選アタック前のセナは、コクピットで瞑想するかのように目を閉じて、まるでアルペンスキーの選手がイメージトレーニングをするかのように手を動かしながらコースとマシンの動きをイメージトレーニングしていた。まさに、カッコイイアスリートだった。
一方、パドックで私的な瞬間に見せたセナの姿は、ごく普通の青年だった。1987年のイギリスGPでは、夕方に女の子の肩を抱きながらホンダのモーターホームに来てくれた。夕方といってもヨーロッパの夏の夕方なので、夜9時過ぎくらいだっただろうか。メディアがすっかり帰って、パドックが静まり返った時間を選んでやってきたのだった。
「まだいるのがわかったから、紹介しようと思って連れてきたんだ。僕の新しいガールフレンドなんだ」と、アイルトンはちょっと照れながら、でもうれしそうに話してくれた。
今、ごく普通と書いたが、その真面目さではそのコトバの前に「バカ」がつくほどではないかと思うときもあった。
1988年のメキシコGPで、セナはパドックのゲートを出て、あるミーティングに出席していた。だが、セナはパスを忘れていたので、パドックに戻ろうとするとゲートの警備員が通してくれなかった。セナを止める警備員にマクラーレンのスタッフは「誰だと思っているんだ」と詰め寄った。が、セナはそれを制した。そして、自分でこう説得していた。
「僕を信じてほしい。僕のパスは、あそこのマクラーレンのオフィスにあるんだ。パスをとってきたらすぐ見せに戻るから、一度だけ通してほしいんだ。信じてほしい」。
すぐにゲストパスを用意したのでセナはパドックに戻れたが、セナは一貫して決しておごった態度は見せなかった。そんな、生真面目でおごらないセナが大好きだったし、歳も近かったのでお互い仲も良かった。
反面、このセナの生真面目さと一途さは難しさもあった。
筆者は当時ホンダF1チームの広報業務を担当し、必然的にアラン・プロスト、ネルソン・ピケ、1987年にはナイジェル・マンセルとも親しく接して会話をするのも仕事の一環だった。だが、こうした他のドライバーは生真面目なアイルトンにとってライバルであり、戦う相手である以上それはほぼイコール「敵」という存在になっていた。真面目なアイルトンは、その場その場で二つの顔と考え方を使い分けられなかったのかもしれない。筆者は勝ったドライバーには祝福の言葉を贈ったが、一人として特別扱いはしなかった。しかし、負けた時のアイルトンはとてもやきもち焼きだった。そして、生真面目なぶんそうした感情も強く態度に現してきた。今となって思えば、アイルトンなりの甘えだったのかもしれない。だが、こっちも若かったし、アイルトンだけを特別扱いしたくなかったし、むしろアイルトンが無意味な特別扱いをされるのは最も嫌だろうと思っていた。だから、こうしたアイルトンの感情的な態度を無視したし、むしろ一対一の人間同士として、友として平等な立場で対抗した。残念なことに、筆者は1989年からはフルに転戦しなくなり、スポットでしか現場にいかなくなってしまった。結果、お互いに会話する機会はなくなり、その関係は平行線のままだった。
でも、1993年の日本GPで声をかけた。土曜日の夜、鈴鹿サーキットのホテルエリアでの道路だった。親しいスイス・ホンダの社長がフランス語で声をかけてきた。そのとき社長と同行していたアイルトンは、社長の陰に隠れようと努力していた。でも、スイス・ホンダの社長は小柄で、その後ろに隠れることはできなかった。そして、会話に聞き耳を立てている様子がよくわかった。翌日の日程確認をしたあと、別れ際に筆者は振り返ってこう切り出した。
「もうひとつ言い忘れたことがあります!そこにいるムッシュ・セナに明日の幸運を!」。
「メルシー」と、か細い声でアイルトンは答えた。そこにはかつてと同じはにかみが感じられた。その場所は今ホテルと遊園地のゲートのあるエリアになっている。そこに行くと、いつもあの晩のこと、あの晩のアイルトンの声を思い出す。あのときアイルトンの一貫した誠実さがあった。当時すでにアイルトンは偉大なチャンピオンで大スターだった。にもかかわらず、アイルトンは勝手にその場を離れるなど傲慢な態度は決してとらなかった。むしろ姿を隠そうとしながらもその場にいようとした。あれは、もちろんスイス・ホンダの社長を困らせないための態度であったが、同時に筆者に対して肩書など関係なく一対一に素の人間同士として向き合おうとする姿勢だった。それが伝わったから、あんなコトバを筆者もかけたのだと思う。素のアイルトンはやさしく周囲を想うヤツだった。あえて親しみを込めてヤツと書きたくなる仲間だった。
翌1994年のパシフィックGP。その年のセナはDVDのなかでも紹介されているように未勝利で厳しい状況だった。金曜日、ピット裏の狭い通路で、ガレージから出てきた厳しい表情のアイルトンとばったり会ってしまった。一瞬、おたがい動きがとまり、ドギマギした瞬間となった。でも、昔のように笑顔でアゴを突きだすような会釈をすると、アイルトンも気が付いたように頑張ってぎこちない笑顔をつくり、同じように会釈を返してきた。
「今年の日本GPにはもう少し、マシな挨拶ができそうだな」と、思った。
だが、それはかなわなかった。
2003年、ブラジルGPに行くと、テレビ局から佐藤琢磨がホンダのメンバーと墓参に行くので、映像を撮影してほしいという連絡があった。それを受けて、テレビ局が手配したブラジルのテレビクルーとともにモルンビ墓地に行った。墓参は、他の多くのカメラマンにも囲まれたなかで行われた。すべてが終わったあと、短時間だったが独りになりアイルトンの墓碑銘に向き合う瞬間ができた。だが、その前に両隣の墓碑銘を見ると、撮影した人たちの靴跡があった。
「こういうの気になるよね、そんな性格だったよね」と思い、ハンカチでそれをふき取った。そしてあらためて、アイルトンの墓碑銘に向き合った。
思い起こされるのは、素晴らしい走りはもちろんだが、やはりごく普通の人で、おごらず、ちょっとバカ真面目で愛すべき一本気で、誠実なのに勝つためには狡猾なところもライバルたちから身に着け、はにかみ屋で、泣き虫な青年のままのアイルトンの表情と声だった。
それは決して神格化された偶像ではなかった。だからこそ、このDVDの企画も当初は誤解して断ろうとした。だが、映像内容を見ると、アイルトン・セナの姿をより現実的に記録していた。それは「神格化された英雄」ではなく、僕たちが記憶するアイルトンがいる「追憶の英雄」だった。だから、この仕事を請けさせていただいた。このDVDならアイルトンも認めるだろうし、よろこぶだろうと思ったからだ。
アイルトンとともに一人の人間同士として、戦い、笑い、喜び、怒り、対立し、ドギマギできたのは、筆者の誇りであり、良い思い出であり、こんな機会を与えられたことを心から感謝したい。
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